江戸後期の画家とパトロン
ー谷文晃・酒井抱
(107)
-喜多武清・亀田鵬斎の作品から|
はじめに 作家とパトロンの問題は、 時代を間わずジャンルを問わず、 常に芸術史の大
きな
課題となっているが、 そもそも パトロンとは何か、 また日本 美術史上の パ トロンとその実 体とはどのよ うなもの
か、
という聞いにここで簡単に答えるこ とは出来
ない。
本稿では、 この問 題に関して、 ひとまず前 稿の 続きとして、 資 料紹介とそれ への簡略な注釈という形 で江戸時代 後期 の文化・ 文政 年間のい く つかの事例 と数点の作品を取り上げて
、 そ
の具体的内容を探 ってみた い。
十九
世紀前半の江戸文化を眺めると、 文化年間以前と以 後との相
違、
文政
から天保への
移 行
と変化を時代 の大きな区切 りとする ことができるか も知れな い。 最終的には、 それ
らを検
証することも視野 に入れてお きたい。 本稿では、
まず最
初に桐生 の豪商でかつ漢詩人としても 知られた佐
羽淡
斎の 二面 性に注目したい。 すなわち、 商人でかつ詩人、 という説明は伝記の 上では 何の問題 もないように見えるが、 実 際は 芸術家と実 業家とが 一 人の人間の内面 に併存する ということは、 矛盾と対立 以外 の何もので
もない。
つまり、 経済史 や産業史 の上で の淡斎と 、江戸漢 詩史の上での淡斎 を別個に 論じるのではな
く、
一人格
とし ての生身の 淡斎を 見つめてみた いということである
。 こ
こでは提 示 するのみで 回答を用意していないが、 問題意 識として掲げておき
たい。
次に、 佐羽家第三代 の竹香ゆかりの谷 文晃と酒井 抱一の二作品を見ることに より、 そ
の 成
立背 景
や来
歴の問 題に触れてみ
たい。
さらに、
喜多武清筆 秋草図扉風に注 目することにより、
抱一を代表
者とするこの 時代の秋草図の 系譜 を考
える一助
山
烈
田
としたい。
最後
に、
儒学
者であり詩文 書画 のい ずれにもすぐれた亀田鵬斎を取 り上
げ、
その文化六 年から足掛け三年 に及ぶ上信越
地 方
への旅中に制作 された
二作
品の特色 と意義につ いて 考えてみた い。
佐羽淡斎における文人意識
佐羽淡斎(一七
七二1一八
二 五
)については、 これまで郷土史や揖斐
高、
池 津プ郎 両氏 ほかにより研究が進
められてきた。
すでに述べたように
、 経済史 や産業史 の上 での 淡斎と江 戸漢詩 史の上での 淡斎という二つの とら
え方で
ある が、それ らの個別の分野でも まだ充分に論じ られているとは
言えない。
さらに
、 商人と漢詩人 という二 面性が同 一人格内で、 どのように併春していた のかとい う問題は、 これ まで全く取 り上 げられて
いない。
回答 の出ない問 題 は、 そもそ も疑問が提 出される
べきで
はないと
も言えようが、
漢詩を見 る上でも 産業史を 見る 場合にも 、常 にその二面 性がどう働いている のかが気 になるところ である。 その ほかに、 淡斎におけ
るパ
トロン的
側面
をどうとら える のか
の課題 もあ る。
実は
、 淡斎が他の画家の作品に画 賛を付け ている例は極めて少な
く、
また具体 的に 画家を 庇護 したり作品を注文したりというケl
スも聞
かない。 本領である 漢詩の 面では、 大窪 詩仏の門下 として館海庵 を相生に招
き、
その 運営する 翠扉 吟社を バックアップしたり、 亀田鵬斎 や柏木如亭を歓 待す
るなど、
具体例には
事 欠
かない。 しかしながら、 美術 の分野では兄竹翁の追
悼記念
書 画帖である文
化 九 年刊行
の『 花漉涙 帖』 を例外と して、 ほとんど 淡斎の姿
を見
ることは出来 な し 。 淡斎が漢 詩人 として作家 として当然何らかの文人意識
を 抱
いてい
たことは 疑いない。 ところが、 彼の作品は漢詩のみで、 文章による
日記 記録創 作等は 全く無い。 詩は散文に 比 べて、 作品としての独立 性、
あるいは
漢詩とい
う借り物の器
による表現形
式においてはモノや自然 への仮託の度合いが 強く、
作家本
人は背
後に
隠れてし まうことが多い。 そうした点に、 詩人淡斎を論じる
ことの難
しさ
がある。
淡斎が文芸を
どの
よ う
に 考えていたかを
示す貴 重な資料
が、
文 政
(一八二五 八 年
)正月に制定された
「家 制
」
で ある。
大き な商家 を経営する 際の倫 理と経済と文芸 の位置関 係を知るには 、 極めて 興味深いものである。 その全文 は本稿の末尾に掲げてあるが、 おおよ その内容 は、 法の遵 守、 忠孝、
神仏
信心、 品行方正、 外出、 休暇、 職務専念、 配置
換え
のこと。 また、 防犯、 防火、 商売 心得、 客への応対、
商人
へのロlン規 定と取り立て、
会計、
物品 出し入
れ、
衣 類、 持ち物、 履き物、 掃除、 食事、 風呂、 洗濯、 便 所、 髪、 文房具、
言 葉
のこと。 そして、質素 倹約、喧嘩口論、飲 酒、困窮者 への 配慮、 芝居見物、学問、 遣 い 風流に
ついて。
さらに
、 手当や待遇、 本宅、 隠居、 別宅ごと の取り決
め、
毎月 の家 法遵守状況の
チェ
ックなど、 き め細かに規 定が なされている。 学問につい ては慎重な 判断がな されているが、 詩歌俳請などは積極的に奨励していること がうか がえる。 これは、 必ずしも淡斎 自身の自己 説明、 自己防衛だけではない とも あれ、
であろう。
子
孫 ニ教候事者
家業を専ニおしへ、
書算等無抜目万 事商売ニ無差支熟し候 上、 余力を 以書
籍を読
せ候儀尤ニ候、 乍去縦聖人 之道たりとも 其生質ニより学文 ニ凝り候時者人ニ誇り
家業を廃し家を破
候者佳有之 却而
害をなし候
事世間ニ 不少候、 幼少より学文を致させ候事其生質を 見究候上、 可有思 慮候、 只詩歌 俳謂杯都而風流之道少者心懸た
しなみ
候様致し度事ニ候、 余り
無雅成も人
品 低ク手薄 ニ見得、 殊ニ老
後之慰 もなきは
如何に候、 信夫とても 凝不申様軽ク 可心懸候、
其外
勝敗有之 慰者人 品賎クなり候
ゆへ可
矯無用候、 人々老後ニ至 り閑 中不局不善様可心得事 この娯
楽 や
学 問は、 天 保九年(一八三八
)、 安
政四
年(一八
五七)
の改定で
は項
目 自体が無くな っている。改定 ごとの変更の
物語るも
のの解 明も必要 だが、 いずれにせよ、
明治年閉まで
半世紀以上にわたって 機能した貴重な 文書とな っ
ている。 M・
ウェ
lパlの 『プロテ ス タンテイ ズムの倫理と資 本主義
の精
神 』(一九O五
年 )
は、 近代(現代 )の人間の状
況を
ほと んど予言 のように述べた 「人間性の かつて達 したこと のな い段階 」
、 「
一種の異常 な尊大さで粉
飾 さ
れた機械 的化石 と化する」 とい
う言葉
にも あるとおり、 狭い学問 分 野にとど
まらず、
二十世紀
思想史
の上 でも広範 な影響を与 えてきたが
、ウ
ェ!パ!の受容 継承とい う点で は、 西洋の歴史 学、 経済学、 社会学の研究と日本の歴 史研究への応 用の両面が ある。 つまり、 近世 や 近代の日本の経
済史や
産業史の 上で、 倫理的
側面
はどの よう なものであり、 どのように機能した のか ということになる。 西洋において
も、ウェlパl以後、
資本
主義や近代 そのもの の史的解 明の上 で、
伝統的な倫
理的制約をどう扱 うか、 倫理的規制はどこ に向 けられているか、
行 動
のシス テ ムはどの
ように構
築されているか、
などに
限が向 けられてきた。
佐羽
淡斎の場 合も 、 こう した 視点からのとら
え方
が必要 であろう。
佐羽竹香ゆかりの二作品
佐 羽
家 は
、
初代と二代目淡斎、
そ し
て 三代
目の竹香
(文化
三1 明治
元、 一八O 六1一八六八)と代 々繁栄し、 幕末から 明治初 期 にかけては、 桐生で生 産される 織物の 過半数を売買するよう になるが、 明治二十三年から翌年 にかけ ての経 済恐慌 で大きな痛手
を受け
、 同二十 九年 に破産することとなる。 三代目
佐羽吉
右 衛門 は、 淡斎の子
で字
は秋江、 竹香と号した。
文政八年
(一八二
五 )
七月の淡斎の 死去に伴い家 を継ぎ、 足利、 江戸、 横浜に出届、 幕末の 経済変 動 の状況に対応 して事業の拡大に努めた。 ちな みに、渡辺挙出の
『毛武遊記』
(天
保二年
)には、
佐羽
家の 蔵書の
貧しさを記
しており、 淡斎当時に比
べれ
ば 、 文
東北芸術工科大学紀要No.14 2007 (106)
芸への関心は後 退 していたのであろう。 安政三年(一八
五六
) の
由来書 (図版3
) に
よると、 現在佐羽家の 菩提
寺 で
ある
静運
寺 に所蔵される谷 文
昆 と
酒井抱一の二作品は、
竹
香 が家運
の
衰 え
た 森
川 家
からこれ らの作品 が流 出したことを 豊龍 上 人に伝えたところ
、 上
人は私財
を 投
じ て入手し
、 浄
運 寺
に 寄進したものである。 豊龍上人は
浄運 寺
創建) 二十五 世の全 ( 永禄元年
誉豊
龍 上人のこ と、
太田
大光院、 受楽 寺 を経 て桐 生へ移っ
た。
慶応三年(一八六七
) 、
五十六歳
で
寂 。
この 由来書 を書いた谷梅所は、 淡
斎の詩碑
拓 本
等
に 簡
単
な 覚
え 書を記 しているが、
詳 し
い伝記 は不明である。 二つの作
品は元
衝立
の表
裏 とな っていたものかと思われるが、 現在は
掛幅
装 、
由来書も それぞれの
裏 面
に ている。 以下作品の 概要を 記すと、 酒井 抱一の《秋草花 貼 り付けられていたが、 その後別紙 に改 装 され
井
図 》(
紙本金地 着色、 一四八 ・四×一 六八
・四 四
、 以下 m を省略、 図版
l )
は 、 画面左 端 から L字
形 ま
たは
くの字形 に葛
の
蔓 が
伸 び
る 構
図を
とり、 ススキ、 リンド ウ、 芙蓉 などが描 かれる。
花と葉
の集合や 重な りは、
や や
リズム感、
生動
感に 欠ける。
葉 や
茎
、 葉の表
裏 の描
き 分
け 、
緑 の
葉の塗 り方と葉
脈
、 一二枚 一組
の葉
のパターン
等
が や
や 単
調 に感じ られる。 保存状況のため か、 金地 が黒ずんで 箔 の継、ぎ 目がはっ き りしている。 抱一 作品の全
体的
展望は、 岡 野智子、 玉晶敏子両氏 ほかにより 試 みられている。 玉轟 氏 によると、 重要文化
財の
《月に秋草図扉風》
は動
きが ダ
イナ ミッ
ク過、ぎ る点と 署名の書風
、 「
文
詮 」
朱文瓢印の 使周
年代が
検討課題と されている。
本作
品の 代筆の
問 題
を考慮しつつも、 個々の描
写が 大きく異
なる
ため、
この二作品を 宜ち
に比
較 することは出 来ないが、 構図の上から は最も近
い作
品である。 画面 左下に、
「抱
一 陣
真筆」 の款記と 「文 詮 之印」 白文
方 印
、「 鴬
郁」 朱文 白印 がある。 「文 詮 之印」
の印 は、代表
的な
オ
リ ジナ
ル作品や 『古一臨 備考』、
沢田
章 編
『日本画家辞典落款
編』
(一九二七年
) 、
狩 野
亨吉・岩上 方外共編 『書
画落款印譜大全』(一九三一年)など、身近な印譜のいずれにも掲載されていない。
印 章
の照合は今後の課 題である。 谷文
昆 の
《 孔雀牡丹 図》(
紙本金地着
色 二
四 八・ 一
×
一 六
八・四、図版
2 )
は 、 精細でしかも
けば けば しさは 無く、
花の写実性、
豪華
さ、
山 石の表現の墨のニュ アン ス もうかがえる。 岩上 と土波の陰 に二 羽の 孔雀 を配し 、 ほぼ
三
角 形の構
図 の安定 感
と
孔 雀
の
威 厳を強
調 し
ている。
金箔
の保寄状態 は、 抱一 作品に比べて
遥 か
に 良
い。 右下に 「文晃筆」 の款記と 「文
晃画印
」 朱
文方 印 がある。
落款
の
書体からすれ ば、 文化年間後期と 考え られる。 孔雀牡丹 は定 型 化した画題であ るが、 比較 する上で最も興味深いのは
円 山
応挙 の明和八 年(一 七七一) の《 孔 雀牡丹 図》(
相 国
寺
蔵 )
であろう。
耕 作
年の 隔 たりと画面の大
きさは
かなり異 なるが (応挙 作品は 一コ二 ・五×一九一 二二叩 )。 文晃
に比 べて応 挙作
品は、 薄
塗 り
でしかも豪華 、
写実と
装 飾の
バラン
スが
絶妙で、 牡丹 と左側
の
孔 雀 の左上
への動 き、
右側の
孔雀
と太湖
石の
右 へ
の水平方向の動
きに
より、 軽やかさと 典
雅の
みごとな 規範を示し ている。 関西
の写生
画 風の受容といわ
ゆる
関東南画の
形成という 問 題を 探る上では、さ ら に多くの作例を考えること が必要 となるが、
本作
品はその
端 的
な 一例であろう。
なお、
由来書には 金
地彩色の
密画の場合
の
批 評
的用語として、
「 折
麗 」
、 「
濡 躍清幽 之趣」 、
「精
研潤揮意態
生動
」 な
どの言
葉が
見える。 これらも実 際の作品 に与えられた 批評 として、
執 筆
年も
明らかであり、 貴重である。 由来書に 見える 森川 家 について、 少し 補足 しておきたい。 周知のように、 相
見 香
雨 氏
の
「抱 一上人年
譜稿
」 によると、
文政三年
の項に、 「森川五郎八山 王 祭礼河
東 節
の連中に 嶋台を送 時塩釜 の絵をかきて其上に賛望 れて 」 とあり、
「 干
網 も
扇
に
似 たり夏の富士
」 の
句が掲げてある。
また、
同年五月
某目 、
「抱 一そ の 友森川
佳続 並にその 女栖霞等
を 誘
ひて、
向 嶋
の花
屋 敷
日を楽んだ 。L とある。 そして、 に 遊び 焼物などして一
「佳
続は 抱一の 友 人でまた後 援
者、
神田佐久間
町 に
住 み、
深川の伏
見屋という 森川
の分
家 、
森川五郎八はその本家か、 森川五 郎右衛門が 佳続か、
河東
節 が
上手 で抱 一と
はその方面で
も同好の
友 」
とある。 ここ では一部訂正が必要 で、 岡 野智子氏 の研 究によると、 五郎右衛門が本家の 通称で、 五郎
作が
佳続、 五郎八は同じ佐
久間 町の分
家となる。
また相見氏の年譜稿文政四年の記事として、「神田明神の額と羊遊斎」と題して、 関東大 震災 に 焼亡 した神田明神の 俳詣 および四 季草花園額 について述べ ている。 これは、 この年の
五月に
森川 佳続 により寄進されたもの のようである。 同年の 早魅
と雨乞
いの記事と抱一 の夏秋草図扉風との関連について は、 玉晶敏 子氏の論文や
著
書 に
詳 しいので、 ここでは相
見氏の年
譜の文政四年の 記事引用 一四川
も省略 する。 また、森川 住続 の注文による原羊 遊斎の蒔絵制
作に
ついては、 岡 野智子、 小林祐子 両氏 の論文に詳
しい。
ちなみに、 フラン ス 文学者の 鈴木信
太郎氏
が明治時代 後半 の神田佐久 間町界 隈の様子について 見聞を
記し
ていることも 付け加えておきたい。
喜多武清筆秋草図扉風
本作
品にはかなり 以前に出会ったが、 すでに故人 となられた 所蔵家 ご当主に よると書 上文左衛門の所蔵 として伝え られたものと
お聞きし
ている。
作者
の喜 多武清(一七 七六1一八
五 六
)は、 字は子慎 、 可庵ほかの号が あり、 文晃に絵
を学び、『集古十種』 編纂 のための文
晃の関
西 旅行に随行する
一 方
で 、
読本挿
絵や肉
筆美人
画なども 手がけた 。
ただし、
長命にもかか わらず、 伝記 はそれほ
ど知ら
れてい
ないし、
作品 も一般に知られるものは 少ない。 かつて脇 本楽 之軒 により縮
図 な
ど が紹介され たことがあるが、
今後さらに
全体的な姿 が判明して
ほし
い画家である。 本扉風(図 版4 )は、 二曲一隻ではあるが、 一応 武清の大作の一っ と考 えて
よいだ
ろう。 線描の速度とリズムが 快く、 秋の草花の乱舞 といった
趣を
呈して いる。 背景の土壊により奥行
きを感じさ
せ、 通常の琳派 風の平面 性と は異なる
画風を見
せる。 一つ一つ の花
や 葉
が自然なリアリ ズムを感じさせもす る。 実 際の ス ケッチ の場 は 小さく、 一見煩雑のよ うに見 えるが、 それ
所ゃあるいは
素材 の提 供場所として、 以下 に述 べる佐原菊塙 の百 花園が利用された かどうかはわ からない。 少し 後の幕末 から明治に かけては、 小石 川 の植物 園が 洋画の先 覚者 たちに 利用されたことはすでに指摘されてい
る。
とも
あれ本
作品は淡い彩色 に よる線描を駆 使し て、 秋の風情をよくとらえている。 全くの同 時代画家である 抱一作品 との 相違は どこにあるかを
見比べ
るのも 本作品を見 る上での
楽 ある。 抱一の草花園の画 風の幅 と年代的な変 遷をたど るのが し みで 難しい
ため、
制作
年の同じ作品
を並べ
て比較 するという ことは出
来ない
が、 秋草図の展開をたど る上で大変興味深い 作品である。 画面右 下に「武清 筆」の 款記と「可庵」 白文
方 印
がある。 ちな みに、武清の 《秋 草図扉風》
の大きさは
、 一五五
・九 ×一六六
・一。 あくまで現 状での 画面法量で あるが、 いくつ
かの
作品例を 参考に 挙 げよう。 出光美術館で の国宝風
神 雷
神 展の展
示図録を参
考と すると、 抱一 の《夏秋 草図扉風 草稿V一 双は、 各一六 二・O×一 八了 四、 その完
成作
は各一六回・五 ×一八二・O、
また其一
の《秋草図扉風 》 一隻は、 二ハ七・五 ×一八
了二であ
る。 その他、 抱一の 《柿図扉風》 (文化
十三年、
メトロポ リタン美術
館蔵 )は
一四五
・O×一
四六
・O、 抱一の同時期
の作とされる《
秋草に鶏図扉風
》 は
、 一四四 ・七×一 四
四・
O 、 光琳の《秋
草図扉風
》(サント
リー美術館蔵
)は
、 一五五 ・O×一七 三・ 六とな
る。
左右上 下の画面の 切りつめ は別 として、
これだ
けの例 からもほぼ三種類の大き さが考え られる。 武清の小 品ではある が、《
春秋草図》
双幅(図版5
)は
画面にそれぞ
れ佐羽
淡斎と津
久井
雨亭(?1一八
三一
)の賛 がある点で も貴重で ある。 紙本 墨画、 各九七・O×二六・
五。
すでに述 べたよう に淡斎には画 賛が極めて少
ない。
雨亭
は桐生
の医師で
漢詩をよくした
人物で、
『 花
漉 涙帖 』 にもその作品が見える。 武清の菜 の花と秋草は、 細い線描による軽快な 作品で、 菜の花の ふっくらとし
た表現も
楽 し い。 これは、 たとえ ば抱一の《
菜花
・麦穂図》 双幅(静嘉堂文庫 美術館蔵 )などに
も 相通ずるもので、
主題
と描写
の共 通性がう か がえる。 また武清は、 桐生天満宮拝殿天井 絵の《雲龍
図》
(一七了 二 ×一六O、 図版
6) を描
いている。 画面 右上から
半円を描
くよう に手前にせり出して 来る
龍 は
ていねいな描
写で、 狩野派の
筆法を学
んでいること と陳容ほか中国絵 画の雰囲
気をよく表
している。
左 上
に「可庵源武清謹 筆」 の謹直な書体の署
名と印文不
明の
方 印
が 一頼ある。 その周囲に は二十面 の草花園があり、
作者
名から武 清の 縁者また は弟子 が多 いと思われるが未調 査である。 天満宮拝殿は棟札の享
和二
年(一八 O二 )銘から建
立年代
が判明し、 天井絵もほぼ その年の作であろ 小 。 とこ ろで
、 文化 ・
文政期
の秋草図作品を見 るにあたっ て、 乏し い管見からで はあるが、 佐原 菊 塙の 『秋野七草 考』 に言及されることはあまり 無いような ので、 ここで少し触 れて おきたい。 本書は、 広く和漢 の書を引用した考証随筆 の類で、 袋綴全三十九了からな
る。
本文
冒頭に「葛飾 梅隠北 野秋芳菊鳩撰、 江戸 桜
東北芸術工科大学紀要No.14 2007 五
(104)
下中村暁河校、 江戸 笥斎 関再麦合」と ある。 著者の北 野秋芳すなわち 佐原鞠 塙(菊塙と
もいう、
本論文では
こち らを使用)
(一七六二1一八
三一
)は、 文 化初
年 、
向 島寺島村に約一 ヘクタールの土
地を
得て、 三百余株(一説に
三六O 株)
の梅
樹を 植え、
その後圏内に 四 季の名
花を植
えて整備
し、
庭園全体を百花
園または秋芳 と名付けた。
文政二年には
抱一の代行として京都の光琳墓の修築
を行っ
ている。 また画は喜多武清 に学ん だという。 本書には、 亀田鵬斎および
筆者不明
の序文がある( 前者は本稿末尾 に掲載、
芳野金
陵 による『善身堂遺稿』 所収の本文とは少し 異同 がある。 芳野 金陵( 一八O二1一八七 八)は、 下総葛 飾郡松崎村の
人、
文政
六年
亀田綾瀬に師
事し、
浅草福
井町
に塾を聞く。 弘化六
年駿汚
田中藩儒員となり、 海防
や財政
改革 に取り組 み、 藩校日知館を興して教 育刷新に努めた。 文久 二年昌平聾儒官となる )。『秋野七草
考』序 文の
末尾に 「壬 申春王正月 鵬斎老人亀田興叙 菱湖巻大任書」 とあり、文化九年(一八二一 ) 鵬斎の門 人巻菱湖の 書による。 その後に秋草図が 収録され
、 図
の左下に
「うめ
やき くう」とあり、 菊塙 自身の作とわかる。 厳密 には七草の七 種類でなく朝顔
が描か れていない。
や や
雑然とし た稚拙な画 風 であるが、 武清の作品の雰 圏気
を感 じさせ なくもない
。 なお万葉
集で の朝顔
は キ
キョウ のこ とと されている。
本文
の 最初に『万葉
集』第八所収の山上憶良 の歌 二首を掲げる。 秋の 野に咲きたる
花を
指折り かき 数ふれば七種の花 萩の花
尾花葛花屋
麦の花女郎
花ま
た藤袴朝貌の花 本文は憶良 の歌のと おり、
萩、
尾花
、 葛、
ナデシコ、 女郎
花、
藤袴、 朝顔の 順に記 述されている。 政文
は筆
者不詳である。 本書で注 目されるの は、
や は
り 富士山と筑波山を視界に入 れた隅田
川の 四 という記 述である 。したがって梅樹を多数植 えるのも 季 の眺 めは、 中国の西湖に劣らない
林和靖にならっ
てであり、 本書全体が和漢 の文芸 を集約する形 をとるが、
中国江南
文化 の受容という型を 踏襲するものでも ある。 と同時 に、 単に 読書の ための本では
なく、
具一体的には
百花園
という庭園 散策のガイド ブックであり、
あるい
は絵 画制作 と鑑賞の参考 図書としても
用いら
れたのではなかろうか。
ここで、
つい でに書 上竹渓と藤生善十 郎 についても簡単に触れておきたい。 池田孤郁 の《隅田
川 遠
望 図》(江戸東京博物館蔵
)は、
以前から
よく知ら
れて いる作 日間だが、 それに付 けられた酒井 抱一の長文の
画賛
の中に、 「桐生の 竹渓、
貞助周二の二子を 伴い云々」 とある。 この人物 は書上( かき
あげ
)竹渓のこと
であるが、
伝記は
よくわからない。
桐生
円満 寺の書上家 墓所は、 昭和四
十一年 に第十二代書 上文左衛門 により代々の
墓石を代表
す る形
で墓所 の正面奥 に書上
家之墓を建て
ている。 現在、 墓所は左右 両
側 に
二十数列並
び 、
古くは永享、
明
応 、
享禄年
間 の
宝
匿 印
塔 や 五輪塔もあるが、
書上
竹渓 と思われる墓石は残念な がら特定できない。 また藤生 善十郎 は大間々の 生糸商人で、 谷文
晃から
文 政十三
年(一八 三O ) に《雨 中夏山図》(図版7 )を贈 られている。 絹本墨画、 一 00
・ 八 ×
「文晃 三 六二二。
Lの署
名と 「画 学斎」朱文 瓢印 がある。 この作品は、 文晃自身による画 中の 画題は無い が、
あら かじめタイトルを知っていなけ
れば陵昧模糊とした水 墨の 放縦な遊びと受 け取りかね ない。 寛政期から文化・文政期に 至
る文
昆 作
品 において、 水墨画の占める位置は大変 大きい。 特に後半 生の 作品は、
一般
に粗 放さが 目立 っため評価を低くしているが、 充実
した
作品
も決して少なくない
。 近代の竹内 栖鳳を先 取りする
ような大
胆さと墨色 の清
新さを見
せるが、
それは
単に近代の予告 という よりも
、 水
墨画の系譜
におけ
る江戸時代の表現の中で の位置づけとい う観点から 見る
必要
がある。 浦上 玉堂の山水
画なども、
後半生 の作品にはさ まざまな複合した流 れが注ぎ込んで達
成された境地と受
け止めた い。 藤生善十郎 については、『大間々
町 誌
』通史編 上 巻に、 簡単な説明 があ か 。 名善十 郎
、 生糸商、 津素と称 した 俳人で もあり、 文晃 に学、び
絵をよく
した。 慶
応 二
年(一八六
六 )七十 歳で没。
文晃
に作品を描いて
もらっ た当時、
藤生善 十郎 は三十四 歳であ った。 ちなみに、 藤生家が江戸 の一 橋家の御 用織物を扱う よう になるのは、 同家
勘定
所宛ての御 用機請負に関 する文書によ り、 文化元年
(一
八O四 )からとされている。 天 保三年 (一八三二) 、 藤生善蔵が
死去した 際、
十石余の土地ととも
に一切
の商業基盤を 相続する
形 で
善十郎 が分
家し、
御 用機屋も 引き
継いだ
といわれる。 大間々 は俳譜狂歌 の盛んなところ であり、 か
っ産業経済史 の上 からも江戸 と密接な交流を 持っていた。 江戸後期 の文人た ち のネットワーク とそれらが微妙に 重なり合 うことに注 目したい。
ノ、
(103)
四 亀田鵬斎の文化六年(一八O九)北遊中の作品
亀田鵬斎について は、 儒学者、 文人という両面
からしばし
ば取り 上げられて
い か
。 儒
学者としての 鵬斎の業績については、 徳田進、 杉村英治、 橋本栄治各
氏 を
初めとして研究 が進 められている。
一方、
文人 としては文化
・ 文
政期を代 表する
一人
として、 特に画家 や 詩人ほか 当代一流の 人物たちとの交流が 広く、 その具体的な姿を 示す
画賛、
序蹴、 碑文について
も今後 さらに
ていねい に見る
必要 がある。 さて、 鵬斎は文化 六年から八年にかけて長期の旅に出て い か
。 日
光参詣の
後、
上信越
地方へ
の足掛け 三年にわたる 北遊である。 鵬斎は、 文化 六 年三月に江戸を出
発、
この旅行時の 日記
・紀
行 ・
詩文集が全く伝
わらない
ため、
『増訂 亀田三先 生伝実 私記』により行程をたどると、日光参詣の
後 、
鹿沼、 栃木、
佐 野
、 足利、
太田を経
て、 上野三碑
を見 た後、
碓氷峠を越 えて信州に入った 。 この途中で、 武州本庄に立ち寄っ たのであろう。
そし
て信州ではま ず佐久の並 木家に滞在した。
この
本庄と佐久とに滞 在した際の 作品が、 ここ で取り上げる 「山水図」 (画題は赤
壁舟遊 )と
「浅間山真
景図」
であり、旅中の 高揚感 も加わっ てか、 鵬斎作 品の中では 例 外的に入念 に仕上げた
佳 作
と言える。 《山
水図
》(群馬県 立近代美術館戸
方庵井
上コレクション
、 紙
本墨画淡
彩、
一四九
・七×九 三・
九、
園版8) は、 その内容から 中国 宋代の代 表的詩人蘇東披 にちなむ赤
壁図あ るいは
赤壁舟遊園である。 画面は対角線
の構 図を
と り、
右横
に樹木
と一般の
舟と
岩場
があ り、 その上に二人の人物が見える。 左上には険し い岸壁があり、 中央奥に遠山が 霞んで見える。 賛 は以下のとおり
右上
に自
作の
七言律詩があ り、
左上に款
記がある。
印 章
は 、
「太
平 酔民」朱文方
印 、
「鵬斎間 人」白文
方 印
、 冠冒は 「醒埠」 朱方長方
印が
ある。
五百年来続
此遊水
光依田接天浮 俳個今夜 東山月悦惚昔年壬戊秋有客得魚臨赤壁 無人載酒出黄州詩 成一望諸 山嶺孤鶴横江掠小舟 文化 六年己巴夏 五月二十八日
写 於
本 庄駅愛梅書屋 鵬斎老人 墨の濃淡、
淡い代捕、
藍の使用
には専門画家 には無い味 わいがある。 人物は 細筆
で描き、
手前の樹木の幹の線は太 く大胆だが、 淡墨の軽やかさがあり、 岩
や舟に淡い代鵡を加え
ている。 風による
枝葉 の動 ぎまで表現し
きれてはい
ない
が、 夏 五月の爽やかさを 感じることが出来る。
元 豊
二年(
一O
七九
) 、
蘇東
披(一Oコ
一六
1一 一O一 ) は朝政誹
詩を理
由 に
捕ら えら れ、
生命の危険
にさら
されたが、
元 豊
五年(一O八二
) 、
恩赦により 黄州団練副使として 湖北省黄 州に赴任した 。
その官名
は名目上
のもので、
実 質的には流罪であ った。
その後、
既望すなわち 陰暦七月十 六日、
さらに 十月、
十二月と、
しばし
ば赤壁を訪れ、 それが大作の赤壁賦二篇に結
実し
た。 蘇東坂 の赤壁舟 遊の画題は、
日本で
も多くの画家により描 かれ ているが、 鵬斎の画賛 は、
その使用された
字句の
内容から
、 蘇
東波の 「赤 壁賦勺を充分に参照した上 で作 られていることは疑い
ない
。 すなわち、 「水光依旧接天浮」 は十三行自の 「水 光接天」
、 「
俳個今夜東山月」 は十1十
一行
目の 「少克月 出於 東山之上 俳個於 斗牛之間」
、 「
壬成之秋」
はそのまま第一行目、
「有客得魚臨赤壁」は 三1四 行 目の「 蘇子与客詑舟 遊於赤 壁之 下」 および「後赤壁賦」 の十二1十 三行目の「有
客無酒
有酒肴無」に、
そし
て 「孤鶴横江掠小舟L は、 「後赤壁賦」の 五十コ一
1 夏然長鳴 掠予舟而 西也」に、 それ 五 十四、 五十七1 五十八行目の 「適有孤鶴 横江東来 麹如車輪玄裳縞衣
ぞれ呼応
している。 その上で、 蘇東城の 詩句と自分の旅先 での感 興とが 揮然一 体となっている。 閉じく蘇東 墳の 「念奴嬬 赤壁懐古」第 五行に 「乱石 崩雲」とあり、
これは
鵬斎の詩句 には無いが、 画 面の険しい
岩の描写
はまさにその 様子を描いている。 鵬斎の蘇東波敬慕は、 詩文の制作 はもとよ り、 谷文
晃、
酒井抱一 との 三人で、 享和 二年(一八 O二) 竜ヶ崎の 金
龍 寺
へ、
室町
時代の洞文
筆蘇東波像
(現春せ
ず)
を拝観に出向 いたエピソー
ドに よっ
ても知られ か
。 ま
たこの年は壬戊にあ たり秋九月には、 国府台の江戸
川 舟
遊に出かけている。 蘇東坂は、 詩文、 書画 、 座談にすぐれた当代一流の文人で、 酒は下 戸であったよう だが、 その文筆によ り巨視的な眼で の悲哀から の離脱を遂げ たと言われている。 酒が下一 戸であるこ とだけは鵬斎と異なる
唯一
の点かも 知れ ない。
寛政異
学の禁により、 民間の儒
者、
詩人、 画人として生きることとなっ た鵬斎は、 流浪の詩人蘇東 披の生
き方
東北芸術工科大学紀要No.14 2007 七
(102)
に深く共感するところ があったに違いない。 なお画賛年 記の最 後 にある愛梅書屋については、 残念ながら不明である。 当 時の本庄には、 富商で かつ 双烏と号 して俳諸に もすぐれた
戸谷
半兵 衛など文芸
を愛好
する多くの人物がいたが、 この書屋 は誰のものか わから
ない
。
《浅 間山真
景 図》
(群馬県
立近代美術館蔵
、 紙本
墨画
淡彩、
一 二
七
七三 ・O ×
・ O
、 図版9)は、
信州佐久 で
の作で、
そこの並木家 に鵬斎は
しばらく滞 在した
。 当主は並木信粋、 宇は純夫、通称七
左衛門、
豪農でかつ 酒の醸造元
でもあ
った。 石刻の十三経
を備え、
書斎を石経楼と称した。
文化六 年当
時、 二十 五歳であ った。
ただし本
作品が並木家 で制作 されたかどうかはわから ない。 いずれ にせよ 、 鵬斎は土 地の文人たちに 歓迎され、 別れを惜しんで一席設けら れたこと が款記 によ りうかがえる。
激しく
噴煙を上げる 浅間山を上 部に
描き、
その前に集落 と水田の田園
風景、
手前に数軒の 家(一軒 には室内 の机上に書籍 が見える )と柳と思わ れる 一 本の樹木 と左 手に橋を 渡る人物を一人描く。 手前 の左右 は
岩や
土 手で仕切り画面を引き締める。 左上には、
やは
り七一言律詩と長 文の 款記が謹厳な楢書で
記さ
れている。 山の 輪郭線や樹木や 手前の 岩のリズミ カルな線と代
結や藍
の点 描的な 表現など、 鵬斎には珍し
く南
画の本格的な技法 もうかがえる。 柳のある 光景は、 池大雅 、 特にその《 滑城柳色図》( 延享
元年、
一七四四 )を少し思わせ るところ がある。
全体に真夏
の昼の長閑 な気分が感じ られるが、 浅間山の噴 煙 が東へたなびく 様子は、 自作漢詩集所 収の七言
絶句
「浅 間巌」によると、 あるいは夕方の景色
を意図して
いるのかも知
れない
。 すなわ ち、『鵬斎先生詩抄 』 巻之二(文政五 年十二月刊)に 収録の漢 詩は次のとおり。
山頂噴焔日夜燃石焦木 黒認当年晩来猶看西
風起
吹送 東天
一 道
畑
また 《浅間山真一景 図》 の賛 は以 下のと おり。
印 章
は、「長興 私印
L 白
文方
印 、「鵬
斎間人L 朱文方
印 、
冠官は 「善身
」 朱
文長方
印が
ある。
千隈江上惨
風煙
石瀬水声咽管絃清 酒頻留酎酔客狂顛 自許老 老若年 銀穣房前避暑会 碧稲田畔細 涼鑑処処回頭尽堪恋夢対墳偶浅掛巌 文化六
年己
巳之夏六
月遊
於信中野沢 日与郷之文人 間飲寛タ遂忘版不 覚臨月
一日
感秋風之 粛琵而去郷之 文士設建酌別酒図賦留別 一首而酬之 鵬斎老人興拝稿井書
J\
(lül)
なお
詩中 の銀蔽については、 辞典によると識はノエンドウ、 ゼンマイなどを き口うが、 紅額、 紫額、 翠蔽、 銀蔽はいずれも百日紅、 サル スベリのこ とである。 紅は言 うまでもなく、
翠は薄
紫、
銀は白
と、 花の色によって区別されている。 鵬斎の 「上田旅
館寄懐
〕 には 「野
沢銀
積園主人 」 という人 物が見 えるが、 誰で あるかは明記されていない。 文化
六 年
六 月に
書か れた 「望畑楼 旦 は、
まさに
この旅中のもの で、 浅間山
を起
点に東西 南北に眼を注、ぎ 、 甲州越後を遠 望する壮大な パノラマ的な
地誌
的
風景を叙述
することそのもの がみごとな散文詩 となっている。 全文は本稿末尾 に掲げてある。 その内容 は、
本作
品の 賛詩と密接に 連動して おり、 読み合わせ るとまことに興味深い。 また文化年間には、
岩村
田の 渡辺斉峯
の 扉
山楼
、 小
諸 の池田寛 蔵 の飛雲楼、 上田の土
屋廉
夫の畳 翠楼など、 今日 のアパート
やマ ンショ
ンの名称 のよ うにあちこちに 酒落た名前の文人の居室が 見られたようである。 この長期の旅の帰途
、 文
化八
年(一八一一 )九月 に鵬斎は再び 佐久の並木家 に滞
在し、
還暦を迎 えている。 そして、 その後の十一月 これまた再び本庄にも 滞在したが、ちょう ど その月の十 六日に釧雲泉が出 雲崎で 五十三 歳で客死した。 鵬斎は 雲泉のため に碑文を作
成し、
現在その記 念碑が終意
の地
に立っている。
なお、
越後
に滞在中 の雲泉が、 その地 で女 性と懇
ろになり、
妻から離縁をせま
られ、
妻が家 財 道具を 運 び去るのを阻止するため、 本圧の 森 田市 郎右衛門ほか 二名の 連 名宛てで協力依頼 の書簡を送 っており、 孤高放浪のイメージのみに見 られがちな画家の現実 的な一面を 知ることができる。 こうして鵬斎は、 文化 八年の師走に長 期の 旅を終 えて江戸に帰っている 。
最 後
に、 鵬斎の序肢 から数点取り
上げ、
本稿末尾に掲 載しておきたい 。『胸 中山』 序および
後序は、
タイトルの とおり胸中山水の 意味を述べて、 その表現
は
「 無法
」 の
造形 、 墨戯ある
いは
酔中の戯墨 に過ぎないと述べる。 次に、
『光
琳百
図』
前編 序は、抱一 は院(体 )画に対する新機軸を 出し 、「写生 」
と
「気韻
」
を兼ね備え ており、 その作品の 「精妙
」
を 讃える。 さらに、 『宋詩画伝』
序は、
雲室上人の 「一端 落L (石市落 )な人となりを称賛
し、
作品 の「間雲
之 情
の趣 に深く共感する。 雲室( 」 、 「晴雲秋月 」
一七 五三1一
八二七 ) は、 鵬斎と生年 没年が一 年 ずれるだけ の全くの同世 代の 人物で、 小不朽社を興すな
ど、
江戸後期の南画史 にその名 をとどめている。
本稿は、 冒頭に述べ たとおり、 画家とパト ロン
に関
する
いく
つかの資料提 示 とそれに対する 簡略な注釈に とどまるものである。 江戸後期の絵
画史、
あるい
は関東
画壇
におけ
るパ
トロンの意味を 探る準備 はまだ充分に整っていない。 ひ とまず、 このような事例報 告を積み 上げ て行くことにより
、 他
日全体への 眺望 が可能となる ことを願っている。 今回取り 上げた作品 の所 蔵者各位および相 生天満宮の拝殿天井絵に ついては 桐生市教育委員会文化
財 保
護課 に深く 感謝の
意を表 したい
。
註
古同階秀爾可芸術のパトロンたち』岩波新書一九九七年ルネサンスから現代美術まで、西洋の状況が簡潔明快に述べられている。拙稿「江戸時代後期の文芸・絵画と桐生」桐生市文化財講演会資料二OO一二年
同
「「花滋涙帖』と
守清風集』
」東
北芸術工科大学紀要第十三号二OO六年玉再開敏子
守都
市のなかの絵』「観音像」の章に、東北大学附属図書館狩野文庫の『花滋涙帖』は、錯簡のある一本と無題築本の二種があると述べられている。先の拙稿では、検索可能な一本のみ閲覧している。
「江
戸と桐生華やかなりし文人交流展カタログし群馬県立近代美術
館
揖斐官同「 桐生織物史編纂会編一九三五1四O年『桐生織物史』上中下巻 『桐生市史』中巻一九五九年 二OO五年
化政期
詩人の地方と中央1佐羽淡斎を中心に」(
『江
戸詩
歌論』
所収)一九七八年六月号岩波書庖
同
池津 角川書盾『江戸の詩壇ジャーナリズム『五山堂詩話』の世界』
一郎司江
戸時
代田園漢詩選』農山漁村文化協会二OO二年前掲註2中村幸彦「近世文人意識の成立」中村幸彦著述集第十一巻所収
2 3
文学
二OO一年
4 5
一九八二年
6
前掲註3山根有コ一「酒井抱一筆
夏草
雨・秋草風図扉風下絵L国華一一五四号一九九二年玉議敏子司酒井抱一筆夏秋草図扉風追憶の銀色』絵は諮る十三平凡社一九九四年
同
司酒井抱一』新
潮美術
文庫十八
一九九七年
同 司都市のなかの絵』
ブリユツケ二OO四年岡野智子「酒井抱一の画風展開とその特色」美術史一二六号一九八九年
同
「東京
国立博物館保管酒井抱一筆
『夏秋草図
廃風』
の成立とその背景」MUSEUM四九三号一九九二年前掲註7の玉嵐氏『酒井抱一』参照相見香雨「抱一上人年譜稿」日本美術協会報
告六
一九二七年、相見香雨集一日本書誌学大系四五(一)所収一九八五年岡野智子
「酒
井抱一下絵「梅擬目白蒔絵軸盆」をめぐって
」東京都
江戸東京博
物館
研究報告第一号一九九五年小林祐子「原羊遊斎と江戸琳派の蒔絵制作についてLMUSEUM五五七号一九九八年
同
「原羊遊斎と
江戸琳派の蒔絵」
(小林忠『酒井
抱一と江戸琳派の美学
』日本
の美術四六三所収)至文堂二OO四年鈴木信太郎『記憶の屡気楼』文芸春秋新社一九六一年、講談社文芸文庫として再刊国宝風神雷神展カタログ出光美術館二OO六年可群馬県指定重要文化
財 (
建造物)天満宮社殿(本殿・幣殿・拝殿)三棟保杏修理工事報告書』文化財建造物保存技術協会編二OO六年北野秋芳(佐原鞠鳩)
タイトルを「秋野七州考」とし、芳野金陵『善身堂遺稿』所収の本文では、 早稲田大学中央図書館所蔵の市島春城旧蔵本による。諸本の照合は行っていない。なお 守秋野七草考』
本論文巻
末の資料での七行自の「後世1本草家
」が
欠落している。百花園の開
園時期
については、玉過敏子
守都
市のなかの絵』「百合・立葵図
」章
に文化
元年六月刊行の詩文集『盛音集Lと関連して論じられているので、参照願いたい。中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書一九八六年井田太郎「富士筑波という裂の成立と展開」国華一コ二五号二OO五年河野元昭『谷文晃』日本の美術二五七至文堂一九八七年『大間々町史』通史編上巻一九九八年
同別
巻二近世資料編一九九五年杉村英治『亀田鵬
斎』
三
樹書房一九八一年杉村英治編『亀田鵬斎詩文・書画集』二一樹書房一九八二年拙稿「亀回鵬斎」
(『
上毛書家列伝』下所収)みやま文庫一九八四年渥美国泰『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』芸術新聞社一九九五年加藤定彦「俳諮師の経済生活」『商売繁昌江戸文学と稼業』国文学研究資料館編所収臨川書庖一九九九年抱一や鵬斎に限らず、江戸の画家や詩人の生活を支える経済上のシステムについては、
7 8
l
nu
9 14 13 12 1115 16
20 19 18 17 22 21
東北芸術工科大学紀要No.14 2007 九
(100)
23
不明なところが多い。前野直彬『新釈漢文大系十八文章規範(正篇)下』明治書院小川環樹・山本和義2麻東披詩選』岩波文庫一九七九年相見香雨「文見模写の東波像に就て」絵一削叢誌一九一六年五月号大石利雄・山田烈
「群馬県中世絵画資料調査報告L
群馬県立歴史
博物館
調査研告書第六号一九九五年芳野金陵『益口身堂遺稿L所収前掲註お
報究
一九六二年
26 25 24
資料
〔桐生佐羽家定〕(文政八年、天
保九年、安政四年、『桐生織物史』中巻所収)家制一御公儀様御法度堅ク相守、別而樽突懸之諸勝負致問敷事、一忠孝之道平生忘却致し申間敷事、一家内一統申A口火之元大切心付、猶又夜分別家之者替/\泊リ番可致事、一商内向者一統ニ出精致し、一向見世共ニ御得意方大切ニ相心得、売方之衆中江茂聯不調法無之様万事相慎、無理成買様等致問敷候、其外出入之諸職人中江茂決而鐙言等申間敷事、一当主世継末孫ニ至迄
、身
分不棺応一一審
リケ(ガ)
間敷儀有之候ハ\別家之者並ニ当役之者共打寄異見致し、若夫ニ而茂取用ひ不申候ハヘ親類相談之上取計可申事、一別家其外当役若者子供下女下男ニ至迄不時成儀、又者悪評杯有之候節者、一統打寄異見致し、若夫一一而茂不相用者は、主人方江申達、急度札明可致事、一奉公中親跡式相続ニ付、無拠暇願候者江は預り之金子弁ニ加力等茂致遣候得共、不動ニ而 此方より鍛造候者江は一銭たりとも遣し申潤敷候、
一家内又者他所に而茂喧嘩口論等決而致問敷事、一夜分自用ニ而他行致問敷候、若無拠用向有之候節者、当役之者相断罷出可申候、夫とても四ツ時限急度帰宅可致事、
一売買ともニ当役之者江無断自分斗(計)ニ而致問敷事、
一見物事其外夜浄瑠璃落し噺色々之人寄等又者芝居杯有之候節も、朋輩ニ不播我鐙ニ無断罷出申間敷候、一人宛代り/\一度見物可致事、一衣類其外小道具等も異風を不用、兎角目立不申様可心得事、一勝手賄方一ヶ月ニ六日有合之魚類を用ひ其外者可矯見斗事、大精進一ヶ月ニ三日廿五日廿三日日待廿七日一子供置付より七ヶ年年季之中者、万事主人方ニ而賄遺申候、年季明候翌年より者給金ニ致遺申候、然上者諸事不残自身ニ相賄可申候、尤薬礼煙草者主人方賄、但し別家之者ニ者(ハ) 薬礼者遺不申候給金者左之通年季明初年金参両六年目金九両弐年白金問両七年目金拾両三年目金五両八年目金拾萱両四年目金七両九年目金拾弐両五年目金八両十年白金拾参両右ニ順し、年々給金加増有之候、
尤支配人江者給金之外ニ一ヶ年金拾両宛矯役金遺申候、
支配首尾能相勤跡役江相譲別家致し日勤之者
江者猶又一ヶ年ニ金三拾両
宛、給金遺申候、此外ニ茂年々庖卸之次第ニ寄、別段ニ褒美金差遣申候、勿論病気ニ而引箆候者、又者不働不動之者茂者、褒美無之候、右給金之中ニ而年分之小遣ひ指引相残候分者、一ヶ年五分之 利足差加へ主人方ニ預り置申候、
右之通相定申候閥、此傍々能々相心得奉公向無段略相勤候者江者、末々迄相応ニ見継遺可申候、縦古き別家たりとも主家ニ背、又者不均成者等は出入差留一切板橋不申候、此旨急度相心得可申候、且此外ニ茂不益成儀者相除、万端倹約を用ひ、実意を以相勤、主従共ニ子孫繁目日を祈可申事ニ候。文政八回年正月家訓一御領主様国恩忘却不仕大切ニ相心得、御制禁之儀堅柏守身分成丈御用等相勤可'甲候、一神仏信心之事、平生怠り申間敷候。別而氏神稲荷、江之島弁財天、西宮大神宮、大黒天家 業繁栄開運を祈り可申、井ニ火防盗賊除者秋葉山三峯山妙義山信心可致候、仏事者先
祖代々其外親族之手向法事無失念懇ニ相勤可申、自分宗旨之外、他宗帰依一切可矯無用事、一家業第一ニ出精致し、得意方。之来客取引之不拘多少無鐙略丁寧を尽し、万端実意を以取扱可申候、且市々買物ニ付、他所之仁江無失礼随分丁寧ニ応対可致事、一別家手代日勤之者、井ニ時々支配人江者家事取斗之儀、一々及相談可申、何事ニ不寄別家之者支配人。異見有之節者、急度取用可申候、旦其時々之支配人初、笠(次之者一一至迄、随分心を用ひ、慈愛憐感を加へ、召仕可'申候、縦少々之越度有之候共、容易ニ限差出不申、得輿穿繋之上取斗可申候、末々用立可申才知之者は、少し之過チを免じ
、取
上召仕可申候、自分之短慮を以、召仕之者狼ニ叱り候儀可矯無用、惣而無理成召仕方無之様、常々可心懸候、一親類又者他人ニ而茂、自分江諮ひ申者之議言決而取用中間敷、妻井婦女子之言葉是又決而取上不申、家事万端女房ニ権威付不申様、平生取〆可申候都而婦人之性者多ク好智成者と心得深く可有思慮事、一普請諸道具衣類等ニ至迄惣而花美春リケ間敷儀可矯無用、諸事質素第一ニ倹約を用費無之様、可心懸酒食等も右ニ順し候事、一遊稽(警か)立白川町並(外何ニよらず無用之慰ニ金銀を費し申問敷事、一第一火之用心大切ニ心付、昼夜家内之者江厳敷可申付候其外平生家事取締り方専一ニ可心懸候、一米綿油相場事帳合商内ニ決而懸り申間敷候、縦正米正物買置ニ而茂一切無用之事、笠(外薬種類何ニ而も商売遼之品同断之事、
0 (99)